- 最期の 1ヶ月 -

2021年11月26日(金)《1年前の今日は…》【お別れのとき】

【 2020.11.26 (木) 】(1年前の今日)

もう逢えなくても少しでも恵子と近い場所にいたくて
まだ浜松から離れたくなかった。

それで朝から恵子の出身の幼稚園・小中高の学校や
浜名湖など観光地をひとりでクルマで見て廻ってから帰ることにした。
本当ならこれから何十年も恵子と一緒に浜松に通って
あちこちを案内してもらおうと思っていたのだが。

出発する前にお母さんが朝食を用意してくれたので頂いた。
食べながらお父さんやお母さんと話していたら昼前になった。

合間に恵子にメールを送ってみた。
「昨日はちゃんと眠れたかな?」
返事は来ない。
昨日の夜は疲れているかなと思ったのでメールを送るのをやめていた。

そろそろ出発しようと思ったら親戚の伯父さんがふらっと訪ねてきたり
そのあと義理のお姉さんも様子を見に来てくれたりした。
いろいろ話しなどしていたら昼過ぎになった。

さていよいよ行こうかと思ったらお母さんが
「家の裏の畑に野菜がたくさんあるからクルマに積んで帰って」と言う。
2人で広い畑をまわっていろんな種類の野菜を採って歩いた。

僕の隣にいたお母さんの携帯電話が鳴った。
「容体が急変したので今すぐ病院に来てください」

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僕のクルマの助手席にお母さんを乗せて病院へ向かった。
状況がよくわからない。

コロナでもう逢わせてもらえないはずでは?
ガラス越しとかモニター画面越しに逢えるのか?
それとも着いたころにはもう・・・。

昨日恵子を乗せて走ったばかりの
実家から病院までの道順を今日もまた走った。

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案内されて病院の廊下を進むと
開いたままの病室のドアの中に
医師の恵子のお兄さんが立っている姿が見えた。
そしてその横のベッドに恵子が腰をかけて座っている。
上体を起こしてお兄さんと話している。

え?
なんだ、平気そうじゃん。
このまま連れて帰れるんじゃないか?

顔が見えてあまりにも嬉しくて
そのあと何と言って声をかけたのかよく覚えていない。
もう二度と逢えないと思っていたのに。

昨日の夜のうちに東京に戻らなくて良かった。
今朝、早くから浜松巡りに出発しなくて良かった。
帰りの高速道路の上じゃなくて良かった。
お母さんに電話が来た時に隣にいて
すぐにここへ一緒に来られて良かった。

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とは言っても昨日よりさらに顔は黄色くなっている。
痛み止めの強い薬のせいか、なんとなく目の焦点が合ってないし
フワフワと寝ぼけたような感じがする。

恵子と話しをする。
昨夜は痛み止めなどの処置のおかげで
久しぶりにぐっすりとよく眠れた。
だけど、今朝は経験したことがないくらいの痛みが来て
びっくりしたと言う。

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(後日、お兄さんから聞いた話し)
・朝の激しい痛みに対してかなり強力な痛み止めで落ち着かせた。
・その後しばらくして血圧が大きく下がった時点でお母さんに電話をした。
・おそらく肝破裂が原因の血圧低下?
・僕たちが駆けつけたとき割と平気そうに見えたのはたまたまで、もう決して長く持たないとお兄さんにはわかっていた。

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恵子が突然、ちょっと丁寧な声でしゃべり出した。
「その件につきましては完了次第こちらからご連絡いたしますのでしばらくお時間をいただけますでしょうか」
何が起きたかわからなかったが、お兄さんが恵子の耳元で大きな声で言った。
「わかった、大丈夫だよ、こっちでやっておくから何も心配するな」
どうやら幻覚の中で会社へ行って仕事の電話をしているようだ。

恵子を横にしてベッドに寝かせる。
平常時よりも少し早くてやや荒い呼吸をしている。

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今後の対応について話し合うため恵子を残していったん別室に移動。
恵子の状態が想像していたよりもずっと良く見えたので
つい安心して恵子から離れてしまった。

でもよく考えたら呼び出されるくらいなんだから状況は相当悪いはず。
少しでも恵子のそばにいてあげたい。
恵子のことが気になって話し合いの内容がまったくアタマに入ってこない。
話しの途中だけど抜け出して恵子のところに戻らせてもらおうか。

迷っているうちに話し合いが終わった。
話した内容は何も覚えていない。

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恵子のところへ戻ると呼吸はさっきよりもゆっくりしてて弱々しくなっている。
目は半分閉じかかっている。
ベッドの横の椅子に座って恵子の右手を握った。

名前を呼ぶと両目を大きく見開いてこちらへまっすぐ視線を向ける。
左腕を僕の顔の方へ高く伸ばして掴もうとするので
僕はそれを右手で受け止めた。

恵子に哀しい顔を見せたくなくて
なんとか笑顔を作って目を合わせて大きく頷いて見せた。

そしてまた目が閉じかけて
名前を呼ぶとこちらを見て腕を伸ばして・・・
というのを3回くらい繰り返したと思う。

呼吸とその次の呼吸の間隔が少しづつ長くなっていく。
もう意味がないとのことで酸素マスクとパルスオキシメーターが外された。
ベッド側面に取り付けられていた転落防止用の低い柵も取り外してくれて
僕はさらに恵子の近くへ身体を寄せることが出来た。

「いつもありがとう。大好きだよ。愛してるよ」と伝えた。
恵子の口がゆっくりとわずかに動いて反応した。
『あ・り・(が)(と)(う)』か、あるいは
『あ・い・(し)(て)(る)』のどちらかを言おうとしたのではないかと思う。

恵子の唇にキスをした。
恵子の目が少し潤んだように見えた。

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名前を呼んでも反応が見られなくなってきた。

とても浅く小さく息を吸ってそして吐いて
それから数秒してからまた吸って吐いて。

止まってしまったかと思うくらいの間隔のあとに
また次のひと呼吸。

この状態をしばらく繰り返す。

また数秒待って次の呼吸…

そしてまた次の呼吸…

次の…

・・・?

次の呼吸・・・

次の呼吸が・・・

・・・来ない。

僕がお兄さんの顔を見上げて「呼吸してない…」と言うのとほぼ同時に
担当の先生が病室に入ってきた。
どうやら別室のモニターで数値を見守っていてくれたようだ。

それとほとんど同じタイミングで二番目のお兄さんも病室に入ってきた。
勤務先から仕事を抜け出して来てくれた。

先生は恵子の状態を確認して、それから時計を見た。
16時23分、すべて終わったことを僕たちに告げた。

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なんとも言い表せない感情で溢れそうだけど
その中に、最期までそばにいてあげられて救われた
という気持ちもほんのちょっとだけ混じっていた。

少なくとも前夜の湯船の中での
気が狂いそうな絶望感に比べたらずっとマシだった。
手を握っていてあげられて良かった。
昨日東京に戻らなくて本当に良かった。

最期に一緒にいてあげられたかどうかのこの違いは
自分が死ぬまでずっと影響するだろう。

しかし思っていたよりもずっと早かった。
入院中でも大きな画面で顔を見て話せるようにと
お兄さんがわざわざ用意してくれた
新品のノートパソコンを開封する暇もなかった。

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地方ならではなのかもしれないけど
お寺や葬儀社は普段からのつながりがあるらしく
お兄さんが迷うことなくそこへ連絡をしていた。

恵子を実家へ運ぶように葬儀社へ依頼した。
迎えを待つ間に病院の女性職員が恵子の身体を洗ってくれた。
着替えはどうするか尋ねられたが
白装束ではなく持参していたいつものパジャマでお願いした。

病室の荷物を片付けているときに枕元の引き出しの中から
恵子がいつもしていた腕時計が出てきたので自分の左手首に着けた。

恵子のスマホから電話をかけて
恵子の短大時代からの大親友や同僚の女性事務員の方などに伝えた。
驚いて泣き崩れていた。

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恵子を実家へ連れて帰ってきた。
通夜は11月28日(土)、告別式は29日(日)に決まった。
29日の予定だったバンドのライブは
僕抜きでやってもらうようにメンバーに頼んだ。

恵子のそばを離れたくなかったけど
着替えの喪服を取りに行くため
夜中に高速道路で一旦帰宅することにした。

行きは恵子を乗せていたのに
帰りの助手席には誰もいない。